優しすぎた息子
2026.06.09
大切な跡取り息子「井手康(やす)雅(まさ)さん(51歳)」の病死を亡くなる当日に知ることになってしまったのは父「井手四郎(しろう)(85歳)」さんは、枕経に伺った私にこう歎(なげ)くのでした。
「なんで、息子は私に病気のことを教えてくれなかったんだろうか・・・」と涙をこぼしながら私に訴えかけてきたのです。
なぜ、このような事態になってしまったのかは、康雅さんのお姉さん奥様や子供たちの話しを聞くなかで理由が分かってきたのです。
それはまず、10年ほど前に井手家先祖代々守ってきた家が団地の土地開発のために、立ち退かなくてはならず、当初は3年ほど仮設住宅での生活を余儀なくされることとなりましたが、全国各地の震災や災害の影響もあり工事は遅れに遅れ、現在もなお仮設住宅に住み続けて10年にもなります。
狭い住宅での慣れない生活は、不便なこともあり夫婦二人でなんとか生活をしていますが、いつか新しい団地に新しい家が建つ日を夢見て、頑張る日々を送られています。
それを一番に心配していたのは兵庫県に転勤していた息子の康雅さんでした。
しかしながら海外出張が多く、忙しい日々を送っており、「仕事が定年を迎えたら古里に帰り長与の実家に住む約束」「家の設計や間取りを話し合ったり」と両親に希望を与えるように安心させ励ましてきました。また八年前、母親が脳梗塞になり身体が不自由になり、それを日増しにいてもたってもいられず、離れていても毎日電話やメールで母を気遣うような優しい親思いの康雅さんでした。
しかし、ある日を境に連絡が来なくなったのです。両親は「きっと海外に出張でも行って忙しいのだろう」と思っていたそうです。でも本当は康雅さんの身体に癌が見つかり辛い闘病生活を送っていたのでした。その闘病の中であっても実家の両親を気遣う気持ちは変わらなかったのです。
そこで康雅さんは親と子供を思うがあまり「絶対に親に言うな、絶対に親に知らせるな」と妻に強く懇願し両親への口止めをしたのでした。
我が子が病気で苦しむ姿を親が見るのは「身も心も引き裂かれる思い」と聞くことがあります。きっとそれを分かっているからこそ、このような判断を下したのです。
亡くなる当日、容体が急変し医師から家族を呼ぶようにと言われ、康雅さんのお姉さんの運転で両親に事の一大事を伝え、一体何が起こったのか急なことで訳も分からない両親を車に乗せて長与町から宝塚市へ九時間もかかる道のりを心が焦るなか車で向かいました。その道中にお姉さんの携帯電話へ本人からメールが届き「本当に向かってきているのか?それも車で?」と。
そしてそれが本当だと分かると今にも今生との別れが来ようとしている我が身を顧みず、両親が向かってきている時の長さを本当の愛だと知り、到着するまで必死に我慢していたそうです。両親が到着すると涙が溢(こぼ)れ落ちながら安らかなお顔のまま息を引き取られました。
その涙の意味は、「両親に会いたい、でもこの姿を見せたくない、悲しませたくない、親より先に逝って申し訳ない、父ちゃん母ちゃん守ってやれなくてごめんよ」そう思っていたに違いないのだとご両親は仰ってました
どれほどの強い想いがあったのか、それは親子の涙が語るように固い絆があるからなのです。
子が親を思う気持ち、親が子を思う気持ちは日蓮さまも同じでした。
それは千葉県鴨川市にある清澄寺にて日蓮さまは十二歳で出家なされましたが、母「梅菊」はどうしても我が子に会いたいと寺を訪れます。しかし女人禁制だったために門前で泣き崩れ、会えない辛さから涙を石で拭(ぬぐ)ったとされる「涕(てい)涙(るい)石(せき)」というものがあります。
また日蓮さまの御両親の死後、身延に隠棲されている間は、草庵から身延山の山頂(標高1153m)まで九年もの間、毎日登られて遠い千葉小湊の両親の地に向かって手を合せ続けました。
このことから日蓮さまと御両親がとても強い親子関係であったことは分かると思います。
日蓮さまのお手紙「忘持(ぼうじ)経事(きょうじ)」の中に「我(わ)が頭(こうべ)は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指(じゅっし)は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬(たと)えば種子(たね)と菓子(このみ)と、身(み)と影(かげ)とのごとし。」
(自分の肉体はすべて父母から受け継いだものなのだと自覚を持たれている。その関係は、たとえば種子と果実、身と影とのように切っても切れないものであると。)
父「四郎」さんから息子「康雅」さんへ伝えていた教えがあります。
① 自分を責めて、人を責めるな
② 信義を求めて信頼できる人を求めよ
③ 仕事は仲間を作れ、仲間により自分が成長する
法妙寺内 持永 海宣
2026.06.09 08:44
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